傲岸に全てを踏み潰していくばかりなのだから
その背中は大きい。その後姿ばかりを、見ている。
どこもかしこも体つきは美丈夫そのもので、肩幅は見るだけで縋りつきたくなるほど力強く広く、長身の男に酷く似合いのそれだ。蒼の服にかかる灰色の髪は指を伸ばしたくなるように艶やかに光り、まるで太陽を吸ったように煌びやかな首飾りと一緒に燦燦と輝く。ああ、太陽の光そのものだ。それでいて私はその髪が或いは血や泥を吸って黒く瞬く瞬間も知っている。
そのなか密かに覗くきめの細かい首筋は白くも無く黒くも無く、繊細でもなく武骨でもなく、吸血鬼が喰らいたくなるような柔いそれでは決して無いと言うのに、酷く、艶かしい。喰らい付くと言うよりは、その肌の細胞を、味を舐め取りたくなる。
肩のした、引き締められた肉体を容易に想像できる胴の下に付く足は長く細い。しかし力弱いというわけでは決してなく、それは何かを踏み躙る足なのだ。それに踏み潰されてきたもの達の残骸、腐敗を纏わり付かせている。
その、うしろ、すがた。
その細部の骨格に至るまで、私は目を瞑ったって繊細に描く事ができるし指を伸ばせばその形だって辿れるのだ。どんな形だって。
だってずっと、見つめるのは、それだけだったのだ。それだけしか出来なかったのだから。
くれるのは、背中ばかり。
目の色なんかくれない。涼しげな目元も唇の綺麗な曲線も首筋の皇かさも、私を抱きしめるどころか前に立つ事も許してくれない胸だって。見せてなんてくれない。
男はいつも私の前に立って私のことなんか目もくれずに自分にばかりすべての神経を注いでいるのだから、彼の視界の中に私がもぐりこむ余地なんかないのは必然でありどうしようもないことだった。
例えば男がひ弱な腕を掴んだら引きずることしか知らないように、私がその背中にすら追いつく事ができないように。男はずっと前ばかり見ている。
例えば子供は白い足で水溜りを踏み潰して遠くの野を見つめるように純粋に、地獄の亡者が一心で空を見つめるように狂気的に、愛しい女を、見つめるように、喜悦を持って。
目を瞠り耳を欹てて、口を閉じ、呼吸を乞うような切実ささえ持って彼は一心にその気配を追っている。それだけを。そうだ、彼が追うのはそれだけだ。寸暇も惜しんでただ只管。その足が歩みを止める事なんて少しもないのだから、だから私は長い足がずんずんと前を進むのを見ている。待ってはくれない。私は追いかけるばかり。背中ばかり。
しかしそれは悲惨ではなかった。必然だった。真理だった。
そもそも機構からして違う二人が共にいる事さえ矛盾であり不条理であったのだから、人間達が寄り添いお互いの熱を分け合うようなやり方で側にいられるはずはないのだ。暖かな幸せなやり方などで。それを彼らだって望んではいなかったのだ。それは人間達がするやりかたのような好悪による共存ではない、ただ男の為だけに存在する一方的な関係、絶対的な力の差によって無理やり捏ね固められた歪な形。
そういう二人だったのだから、何も悲しいことはなかった。なかったのだ。
嵐が世界を壊すように、それはただ世界の条理に彩られた結果でしかなかったはずだ。関係の根幹になる感情など存在しない。たまたまそれはただただ二人の都合によって作られたのだから。
背中ばかりを見ている、追いかけてばかりいる、酷い腕に引き摺られてばかり。
だけどそういう風に作られた二人だったのだから、それは、悲惨ではなかったはずだ。必然だったはずだ。真理だったはずだ。
そう、だったはずなのに。
どこから狂った。いつから狂ったのだ。唇からもれれば空気に溶けるしかない問い、しかし私は、その答えを知っている。明白に。哀れなほどに。
どこからおかしくなったの。
決して振り返らないはずの背中をいとしいだなんて、どうして。どうして。
...聞き苦しい事を告白します。
私の不毛な性分は昔から変わらずで、ずっと側にいてくれないものばかり愛していた。例えばまだ私の背が台所にも届かなくてお母さんの手伝いも出来なかった頃、雨の中で拾ってきたあの子猫。お父さんにもお母さんにも反対されて近くの空き地でこっそり飼っていたのに、確かに毎日餌をやり清潔なタオルを与え優しく愛し慈しんだはずなのに、数日としないうちに息をしなくなって最後には腐って唯の肉塊になってしまいました。いなくなった。愛していたはずなのに私を置いて。或いはお父さんが道楽で買ってきた可愛い眼をした黄色の文鳥はある日駕籠を開けた瞬間羽を翻して大空に消えてしまったし、それからお祭りで買った金魚達は3日とせぬ間にどろどろに腐って溶けて水の中の藻屑。ああそういえば私を異常に愛していたお父さんも放っておいたらいなくなっちゃったなあ。
そう、私が愛せばいつもこうなのです。或いは直ぐにいなくなるものばかり愛している。
皆皆、少し目を瞑った間に全部掌から指の間からこぼれて消えている。あんなに大事なのに愛しかったのに、愛したのに、消えていく。笑ってください。私は馬鹿なんです。愚かなのです。
大事なものが消えたときには顔をぐしゃぐしゃにしてわあわあ無様に泣いてもうあんなもの二度と持たないってもう思うのにややもせず直ぐ次だ。愚かなのです。
こねこ、ことり、きんぎょ、次は、
ずっと側にいてくれるはずないものばかり愛していた。
目の前の男から喜悦の声が上がる。行くぞ、と言った背中は振り返らない。私はじっとそれを見ている。目が胡乱になる、胸が酷く痛む、う、あ、密かな声は嗚咽のように私の喉からもれて消えた。いつもその背中に泣きそうになる。無様。
ああ、いつからこの悲惨は始まったのか。恐らくそれは認知の瞬間だ。背中を、いとおしんだ瞬間だ。そして同時に、ああ自分はこの男に愛しているのだなと気づいたのも、それが永劫叶わないものと悟るのも、その背中を見た時だった。
だって私はもう知っている。男が見ているのはあるかも分からないその貪婪な知識と欲の果てだけだ。いつだって私は置いていかれるばかり。
だけど追いかける気にはならなかった。振り払われる自分の腕に竦み怯える位には、この感情は育ちすぎている。
今日も男の大きくて傲岸で、そうして泣けてくるほど無情な背中を見つめながら、私は悲しく瞳を伏せる。それでも瞼の裏に浮かぶのは、あの男がたまに振り返って微笑む顔ばかりなのだから、本当に自分は愚かとしかいいようがなかった。
何度も何度も名前を呼ぶ声が聞こえる。私の名前。その声を放つ唇すら見せてくれないのに。
ああ、何て、馬鹿馬鹿しい。