わすれてしまう

纏わり付く夥しい量の髪の毛は、樹木に絡まる蔦のように踝から脛を経て、最早膝まで達しようとしていた。歩を進めることができなくなることを恐れ強かに前進すると、下肢を侵食している髪の毛は、ぶちりぶちりとまるで草が引き抜かれるかのような音をたて、地面から容易にその根を離した。

漆黒の闇の先に、ちらちらと瞬くものが見える。目を凝らすと、周りの黒を焼くようにして、灯りが強さを増した。それに不思議と安堵を覚えながら、ふと背後を振り返ると、遥か上空にある海がざざざと蠢いた。

あ、と思った瞬間、うねった波が奔流となって、一気に頭上へと降り注ぐ。圧倒的な力に飲み込まれ、手足を必死に動かして、浮上を試みる。目を必死に見開いても薄ぼんやりと闇を映すばかりだ。水に肺を犯されながら、四肢を覆う水圧を掻き毟るように手足を捩らせると、掌が液体とは違った感触に触れた。

気付くと、砂浜に打ち上げられていた。

不恰好に両肘と両膝を付き、喉奥から飲み込んだ水を夢中で吐き出す。しかし、咳き込んだ拍子に口から出たのは、胃液と混ざった水ではなく、大量の文字だった。

名前、日付、記号、かつては配列によって意味を持っていたものたちがばらばらに引き千切られ、歯列の隙間から溢れ出す。

白い砂浜の上に、吐き出した文字が撒き散らされていく。口元に手の甲を押し当て堪えるも、胃の奥から断続的にせり上がってくる不快感は増す一方だ。両膝をついて背中を丸め、湧き上がってくる文字たちをやり過ごそうとするが、全く無意味だった。上ずった呼吸が更に乱れ、その度砂浜が文字で汚れていく。砂に爪をたてながら必死で掻き集めようとするが、それをあざ笑うかのような静けさで、漣が吐瀉物を攫っていく。涙を流しながら一握り砂を掴むと、そこから粒子と共にさらさらと文字が零れていった。

 

かつては名前だったそれ。

 

「彼」を表す一片。

 

それが地面に付くと同時に波に攫われてしまった瞬間、闇を引き裂くような絶叫が辺りに木霊した。

 

 

覚醒は、突然だった。

呼ばれた名前、揺すられた肩。

瞬きに垣間見えたのは、見慣れた「彼」の顔。

 

ああよかった、まだわすれていない。