夜に繁栄す

夜を美しいと思った事は無い。目の前に渦巻く闇に勝てる術は無い。誰しもが其れを失念し、其れを押し付ける。また光で打ち破る。

ただ夜中だけは誰もが入り込む事の出来ない己だけの空間が出来る。

 

彼女の幸せの為に縛られるのは苦痛だ。彼女の幸せの事など私は一切考えてなど居ない。それどころか他人の幸せだのすら考えては居ない。恐らくこれは何処まで行ってもそうなのだろう。

生存している事自体を恨みはしないのだが、それがたまに酷く痛むような気がしないでもない。世界はたまたま己をこうも転がせた。

 

運命は今更信じては居ない。口でどういおうとも。頭の中で処理は出来ている。其れは哀しくない。処理は哀しくない。的確に陥れるだけで、全く哀しくない。畏怖も尊敬も憧憬も要らない。同情も憤慨も策略も要らない。哀しくなくなるというのとはまた別なのはまた処理出来ている。

哀しくない訳じゃない。ただ悲しむ必要が無い。頬を伝う涙と額から流れる血の何が違うというのかが全く解らない。

ゆっくりと脳が我が儘を行っているのは解る。流れる水分の区別は誰かがする。流れる血液を涙だとは言わない。恐らく私には言う資格も無いだろう。立場に甘んじている。

 

硝子を押し広げて、窓から飛び降りる。コンクリートの地面に着地すると、雨の上がった後の咽せるような腐った石の臭いがする。

彼女ではない私を誰も信じていない。それどころか誰も知らない。所詮象徴か、と口に出す。聞かれていようとも構わないが、一人で居る事がさっぱりとしていて、己の声を忘れないためのような気がしてくる。

彼女が笑顔にこだわるのはそれが己の居場所だと言う存在感を過信しているにすぎない。私は彼女のようにはなれない。辛い事があったからと言ってかたくなになる彼女自体を私は理解出来ない。それがどんなものであろうとも、流転している現在を信じる事が出来ない彼女の考えなど解らない。

私は彼女の為に存在したのではないのに、彼女の存在として利用されているだけに過ぎない。重苦しい、吐き捨てるように呟くと、風が吹いて木がざわめいた。

象徴だなどと笑わせる。血を流しているのは自分だ。流させている血液も全て自分のものだ。彼女の思考も存在も全て私なのだ。

あれはただの自虐であり、反抗期のようなものだ。小綺麗な言葉で表せるものではない。彼女と私は全く違うが同じである。同一人物だ。ふざけている。少し笑うと、皮肉気な笑いになったようで、漸く私も生き物なのだとおもえる気がした。

 

明日は彼女を迎えにゆく。また血を流さなければならないし、その血に限りがある事を知る人間は一人もこの場には居ない。

土手のぬかるんだ地面の臭いで落ち着く。嗅覚など滅多に使わない分、生存している事実を掴む。それこそ皮肉のようだ。

目を閉じる。額に落ちてきた水滴で目を開ける。ぴしゃり、と水に濡れた男が立っていて、こちらを見ているようだった。重そうな色素の薄い前髪を一度持ち上げて、首を傾げられた。

聴覚すら失っていたのか、感覚がもう麻痺していたのか、自分には解らなかった。水滴が散って自分の顔に降る。触覚を漸く実感して、安堵する。湿気て消えかけた煙草を投げ付けると、土を踏み荒らす音がして、生き物は視界から消え失せる。ははは、ざまあみろ。

 

 

夜は繁栄する。己の中の声が繁栄する。

誰かにものを言える、誰かがものを言う、誰かが答えを出す。夜に繁栄するのは己なのかもしれない。昼は彼女として息を潜め、夜に声を思い出す。夜に繁栄している。

 

ふざけたことをしていたような気がして、少し笑う。開けっ放しの窓が闇を吸い込んでいく。眩しいものは嫌いだ。

私は夜に繁栄する。