芋虫

例えどのような形になったとしても己に手足など生えずそして生まれることもないのは若干の違和感を覚えつつも理解出来る脳味噌であると言う前提なのだからそういう風に出来ていたので若干の違和感というものは結局ただの勘違いだったのだということにした。若干というのがどの程度であるのかは私しか知らず、また彼も己にしか知り得ないことを私に呟くことは無いだろう。そして理解出来ないであろうことも彼は決して言うまい。そういう男だ。私は私を客観的に見ることが出来る。これは誰も持ち得ないとてもいい私の特色で、もの凄い特技なのだとなんとなく脳味噌以外の所で考えてみるが脳味噌というものは実際私には物理的に存在していない。だからつまりこの思考はどこから漏れている者なのだろうと考えているとどの哲学書もどの誰かも他の誰かも多分誰かもみんな心だというのだろう。あらかじめ言いたいが、そんなものがあるのならば私はとっくの昔にもっと早くにもっとすぐにもっと簡単に彼など消し去れたしその逆も然りだ。彼の世界は広くて知識は彼だけでは足りないかもしれないが、彼がもう一人いれば良いだろうというある意味極端に拙いその精神が為された所業ののちに為された「事」であって、実際そんなものがコンピュータやらテーブルやらコップやらにあると思うというのは勘違いも甚だしい。解らないことを解った振りをするなどというのは愚行だ。でなければ思い上がりだ。誰もが推測としてしか述べないような言葉をまるで己が知っているかのようにひけらかすその精神を心と呼べと。周りからしか認識されないそれらを心と呼べと。本当に心だとかどうだとか実際判断しているのは個人のみであってその真実などどこにも無いというのに一体どうしてそこまでその存在のみにこだわるのか。あってほしいと思うからなのではないか。ここで私は私の電源を落とした。独り語りを始めるのは己の脳の奥の部分だけで良い。私は眠らなければ死ぬし私は食べなければ死ぬ。そして殺されても死ぬ。私はプログラムと言う形の私の思考回路を読んでから眠る。私は私の研究をしている。腕と足と声と全て取り攫った私の芋虫の研究をしている。私は私というものの研究をしている。私は私という者を信じていない。そして私は私と言う生き物の研究をして、疑心暗鬼と潰れそうな不満を抱えながら眠りについて悪夢を見て奴のことを考える。そして仲間のことを考え、そして止めてまた眠りについて今度は何の夢も見ないで寝て起きて食べて排泄して金銭を揃え何時もを演じまた自分の研究をする為に電源を立ち上げるのだ。己の心臓を剥き出しにしたような大きな機械の塊を抱えてうずくまるように大きい狭いスペースで死ぬ程の不安を抱えたまま電源を立ち上げるのだ。