彼の名は

大体その男が黒幕だといってしまえば確かにそうだ。

私を扱えるのは彼しか居なく、また彼を疎み続ける彼にだってそれは漸く出来たことであって、本当の所、彼がどういう男なのかを解っていなかったに過ぎない。実質、そんなものは彼だって知りはしなかったのだろうけれど。

 

彼の背中には大きく四つの傷があってそれを彼は私が撫でると怯えるように震えた。

父親と思い出すと言う。そうして良くその背中を撫でるあの父親は結局母を愛していたに違いなく、気の狂ってしまった母親に全く似ていない彼にそんなことをするなんて、きっと結局そうに違い無い。気の狂ってしまった母親の初めての最初の出現は彼が十四才の頃で、十四歳の頃にブチ切れたり反抗したりすると気が狂ってお仕置きだといって父が趣味で集めているナイフで背中をざらりと撫でた。

最初は短かった。だんだん気の狂っていったのが自分でも楽しくなってきた母親は何もしていない彼の背中を追いかけて一番深く長く傷をつけた。彼は病棟で目覚め尾てい骨の部分が痛むのを感じてみたりして、病院から外で抜け出すとただ父親が家の中に座っていた。これは十五歳の頃のことだ。父親は彼の背中を剥いだナイフを手入れしていた。まるで戻ってきたときまた彼女が使えるようにと。これは愛だろうか。愛なのだと彼は思った。

苗字は、祖父の旧姓だ。現在の家族と血縁しているものはただの一人としていない。もとから三人だったのだけれど。彼は自分で名前をつけた。どうせならかっこいい方が良いから難しい感じのを選んだ。彼は施設に入ってなど居ない。彼は最初から彼だった。別にやくざの息子でもないし、別に普通の家庭の子供でもなかった。彼は最初、自分の名前を決めた4歳の頃から、彼として存在していた。其れより前の名前は忘れた。確か頭の可笑しいホステスに拾われて、彼じゃなかった彼はそれの母乳を吸い取って生き残った。彼は捨て子ではない。要らない子供でもなかったのだけれどもホステスに誘拐されて以来行方不明に成っていた子供なのだと言われたのは警察に連れてこられた時でその警察署から突き出される前に、何故かやってきた女は彼を彼と呼んで、迎えにきた。彼は彼の家に戻されなかった。その女は先ほどの気の狂った母親であり、アップ系の薬を手放せない女であり、ホステス仲間だった親友とかなんとか言っていた女で確か良く見た女だった。それは何故か彼の母親に成ってしまった。何故なのかは知らない。あの時から以前に幹は警察機構というものを信じるのは産まれた時からインプットされていなかったので、あれがミスだったのかそれをやった刑事は誰だったのかなど思い出せない。

祖父の旧姓は、見せられた家系図で覚えた。字面が自分の名前にとても良いような気がして、長い名前が欲しくて、早乙女、と彼は上につけるようになった。ホステスに誘拐された幹はまたもホステスに誘拐され、背中に四つの傷を作って父親は何時までも其れを撫でていた。

母親は色々殺っていた。何かを。

そして父親はそれを何時も綺麗に丁寧に手入れして消していた。何かを。

これが裏側の世界だとは彼は思わなかった。こちらが表なのだと、信じて疑ったことは無かった。なぜなら其処に彼が居るからだ。彼が居る限り彼の表は彼の居る側だ。当然のことだ。それで母親は帰らない人に成った。糞尿を垂れ流し、顔にマスクをかぶせられ、大勢の前で首の骨を折って、そして彼女の友達が居るであろうあの穴に飛び込んで行ったはずだ。そしてそれを父親は彼に許さず、襲いかかってきた父親のナイフが顔をかすめて五つ目の彼の傷はこうやって出来上がった。また病院で目が覚め、そして警察に捕獲され、そして脱走して、ようやく彼は彼に成って彼に成ったのだから、彼らしいことをしようとした。出来た。それだけのことだ。

そっち

最近、少し冬が嫌いじゃなくなった。

前までは本当に夏が一番好きだった。暑い中仰ぐ団扇の微妙な涼しさとか、日光がアスファルトに反射する美しさとか、冷たいアイスを溶けないように食べることだとか、水の気持ちよさとか、祭りで夜と共存することとか、花火の淡さとか。この心地良い感覚を語ると彼が首を傾げていたのを覚えている。その後に冬は嫌い、というと勢いよく頷いてくれたことも。

 

「俺、実はおばあちゃんっ子なんですけど、」

突然。

彼がそう言って、私は現実に戻った。ぼんやりとしていると、どうも今までの出来事をふと思い出したりして、気づいたら「そっち」へ行ってしまう。誰かの声や何かの音で、ふっと戻ってくる。そういう感覚的なものかもしれないけれど、確かに私は「そっち」へ行っていたのだと、近頃は思うようになった。

 

「ごめん、もっかい言って」

素直に聞いてなかったことを謝り、そう言うと彼は少し不貞腐れて、次はないですからね、とゆっくり答えた。私はその言葉をきちんと聞き取ってから、頷いた。 

 

せっかくの誕生日なのに、彼は風邪を引いている。それなのに何処かへ行こうと私を訪ねてきたから、私は彼の家がいいと言って、彼を寝かせることに成功した。元気だと言い張りつつ咳き込むから、こうして正解だったと思う。これで彼の風邪が更に悪化したら、罪悪感に襲われるのは、間違いなく私だ。ごめんね、自分勝手でさ。

 

「俺、おばあちゃんっ子なんですけど、」

「あ、そんな感じする」

「なんか出てるでしょ、優しい感じが」

「寝てる時だけだけどね」

うわひでえ、と彼が笑うので、私も笑った。途中、また彼が咳き込んで、その咳き込み方があまりにも苦しそうで、何故か私は怖くなった。本当に怖いのは、私自身なんだけど。

 

「夜に爪を切ったら親の死に目に会えないって、ばあちゃんがずっと言ってたんですよ」

 

天井をぼんやりと見上げながら、彼は続ける。

「当時の俺はよくわかってなくて、でもとにかくいけないことなんだなってことだけは理解して、馬鹿みたいに時間守って爪切ってたんです」

彼は掌を天井に向けて、伸ばす。視線が、その掌へと移る。

「何か、信じられない」

「でしょ?俺もちょっと、信じられないです」

こんなこと貴女に話してるのも信じられないですけど、そう呟いた。そこは聞こえなかったことにした。本当は、もうなんにも聞きたくないんだ、私は。これからのことを、思うと。こんな私を、許さなくていいんだよ。

 

「でも」

彼の瞳は、いつの間にか死んでいる。掌をそっと天井から離す。

 

「母親は、俺の目の前で死んだんです」

 

一瞬、心臓が止まったかと思った。それくらい、彼の声は、静かで低くて、揺れがなかった。

「それ以来ですかね、信じることを止めようと思ったのは」

「そう、なんだ」

「だから、裏切られる前に裏切るようにしてるんです」

自分でも馬鹿だってわかってるんですけどね、と彼は続けた。まだ何か言いそうだったので、私はそれを制した。

「こういうこと話すの珍しいね、やっぱ風邪ひいて疲れてんだよ。だから今は寝て、早く良くなって。あと、誕生日おめでとう」

言いたいことを全て言い切ろうとすると、彼がふ、と笑った。

「なんかお祝いの方がついでっぽい感じですね」

「だってそりゃ風邪の方が心配だし」

「でも、帰っちゃったら寂しいかも」

あまりにも普段では想像のつかないように可愛らしいことを言う。だから私は、彼の頭をやさしく撫でた。

「大丈夫、朝まで居てあげるよ」

 

 

彼が眠ったのを確認して、私は「そっち」へ行った。

 

最近、少しだけ冬が嫌いじゃなくなった。

それは、冬の良さを知れたからだと思う。ひとりで過ごす冬は寂しかったし、大勢で過ごす冬は気を紛らすだけのものに過ぎなかったけれど、彼と過ごせた冬は、それなりに好きだった。

めちゃめちゃ寒くて、その上喧嘩するし、涙はあったかくて気持ち悪くて、最悪だったこともあった。けど、白い息で手をあたためて、コンビニの肉まんをふたり夜の公園で食べるのは本当に悪くなかった。たまに手繋いだり、寒い夜を突っ切っていく自転車の二人乗りしたり、インスタントのカップスープで心身温まるのも、悪くなかった。本当にそれは、良い経験をしたと思う。

だけど、同じ冬は来ない。二度目はどうしても、新鮮味はないだろう。そういうのを私自身我慢できるかわかんなかったし、彼が冷めるのも、見たくなかった。

 

ずるいことを、酷いことをするのだということも、わかっている。でも本当に彼は私に縋りつくのか?と自問すれば、強く頷けるわけでもなかった。だから私は、自分から切り出そうと思った。 

だからこそ、彼の話は聞きたくなかった。彼のおばあちゃんの言葉は故意ではなかったにしろ、私は故意的に彼を裏切ろうとしている。また彼を底に突き落としてしまうのは、凄く申し訳ないと思う。でも私は、そういう酷い人間なんだと思う。

自分で自分を嘲笑った。大切な日に、ましてや誕生日に別れを切り出そうとする私は、きっと神様がいたら殺されているくらい、汚い心を持っている。

 

それでも、彼の話を聞いてそれを言うのに怯んだ私は、多少のやさしさはあるのかもしれない。安心して眠っている様子の彼を見ながら、ぼんやりとそう思った。寝顔は少しわらっているようだった。彼の見ている夢ができるだけあたたかいものであればいい。無責任だけれど、私のことなんかで傷つく姿は、想像したくないから。

 

 

「朝まではちゃんと、傍にいるよ」

 

それからゆっくり話して、終止符を打とう。

想い出はきちんと「そっち」へ持っていくからさ。  眠っている彼に、そっと口付けた。

詭弁

死は穢れである、なぁんて誰が決めたんでしょうかね。

 

断言するなって?だってそうでしょう。

大体「縁起が悪い」とかいう発想自体が、死を悪として捉えたからこそできたものだとは思いませんか。

命は繋がっていくものらしいですよ。

例えば、私がどっかの道端で倒れてそのまま野垂れ死んだとする。私の身体はもちろん日に日に腐敗していくことでしょう。皮膚が破け、蛆がわいて、肉は溶け出し、どんどんと人の形でなくなっていく。

でも、それだけのことなんです。

人の形をしていないだけで、きっとどこかで私は生きているんですよ。食い破られた皮膚は蛆虫の養分になるだろうし、溶け出した肉はやがて大地に飲み込まれていくんです。

ただそれだけです。大きな循環の中にいるという点では、何にも変わらないと思うんですけどね。とかいいつつ、やっぱり私だって死は怖いですよ。得体の知れない存在ですよ。

それでも同時に、とても身近な存在であると思うんです。まぁ、いくら命の循環を説いたところで、やっぱり恐怖は浚い切れないんですけどね。

死後の世界って、生きているものにとっては永遠の謎ですよね。でも、命が循環するっていうことを考えると、死後の世界なんて存在しないことになる。

だって、命は姿を変えていつまでもいつまでも生きてるってことになりますから。詭弁ですかね、こんなの。何をどう言っても単なる気休めにしかならないのかもしれないけど、ただ、どうか泣かないで下さい。

あぁ、すみません。つまらないことを喋りすぎましたか。

 

どうでもいいんですけど、この部屋なんだか暗すぎやしませんか。灯りを点けて下さいよ。

なんだかとても暗いから、どうもあなたの顔が見え辛いんです。

なんだか声も、あなたの声じゃあないような気がしてきて。

ねぇ、ここは暗くて。なんだか、怖くて。

複雑だと思いたい

複雑だと思っていたい。

彼女は座っていて、その彼女に手を出そうと思ったのは特に意味はない。ただ触れると頬は柔らかく反発した。侮蔑するように睨まれる。指を噛まれる。生意気だと思った。

 

複雑だと思いたい。

とてもがんじがらめで歪んだものだと思いたい。人間はどうしようもないものだと思いたい。目を伏せ、髪は茶色、歪む視界、望んでいますかすぐに失格です。ねえ、と呼ばれる。それは私の名じゃないと思った。

 

複雑だと思いたい。

髪の毛を触るとそれは跳ね返って、反発する。小生意気な天然は、素知らぬ振りで寝ている。一生眠ってしまえば私はどうするだろう。そのうち一緒に寝てしまうのかもしれない。彼女に墓は要らないのだと思った。

 

複雑だと思いたい。

この心情も、この感情も。ただ見つめていたくはない。考えることだけは、単純でいいと思う。ただ本能みたいにこうして眠る女も、それを見つめる私も。

笑っておくれよ

水色のマフラーが笑っている。

綺麗な振りをして埃だらけのそれが、命綱のように彼女を取り囲んでいる。

ただ首にしか触れていない。これでは死んでしまう。だが私には助けられないのだと、私は慎重に考える。助けられないものをすくあげようとする「癖」が直っていない。

癖だ。本能でもなく、成育の間に染み付いた「何か」恐ろしい洗脳だ。水色のマフラーが笑っている。これでは死んでしまう。

 

彼女は起きる。人の気配を察して起きる。恐ろしく早く、恐ろしく怯えながら飛び上がる。今寝ているのはもしかしたら寝ているのではなく起きているからかもしれない。おきているのかもしれない。起こされるのは余程嫌いらしい。起きたときも起こされたときも長い髪の毛が無造作に振り乱され、毛先が眼球に当たっては何事も全て悪だというような顔をする。

水色のマフラーが彼女を殺そうとしている。命綱ではない。これでは死んでしまう。

彼女が首をもたげる。薄暗い灰色の髪が目にかかっている。また首に何重にも巻かれる水色のマフラー。駄目だ、それは命綱にならない。ならないんだ。癖を押しとどめる。

私が彼女に何かしたところで何も、意味など無いのだ。

 

エンドレスフラッシュ、笑っておくれよ。

エンドレスフラッシュバック、返ってこなければ綺麗なのに。

またもう一度笑っておくれよ。今度は頑張って助けたいから。

世界の全てを殺しても君だけは生かしておくよ

君はもう死んでいるんだ。わたしももう死んでいるよ。

 

わたしは眼が覚めると必ず、此処が極楽浄土なら良いと思ったものだった。

わりと昔からの願望だ。誰もが極楽浄土に居ると思っていたからだ。極楽浄土は良いところだと聞いた。そう言ったのは誰だったか。残念ながらそもそも他人は信じていなかった。他人を信じていた奴はわたしの目の前で死んだ。

死ぬことは悲しい。死ぬことはとても悲しい。それは止められない。

人間は生きている限り死んでいく。生きていながらに死んでいく。わたしは何時もかなしい。

 

あいつは、本当に変な奴だった。悪い人じゃないどころか良すぎた。とてもよすぎた。なのに死んだ。骸は何処にいったのか。わたしはかなしいと言うよりはとても空虚だった。

世界は歪んでいる。それ以上にわたしも歪んでいる。悪いのはわたしだけだった。

何であいつは死んでしまったんだろう。わたしから見える場所に散らばる、色取り取りの髪の束。わたしは泣かなかったが、どこかで獣が吼えていた。

 

そして次の日も、わたしは眼が覚めると必ず、此処が極楽浄土なら良いと思い続けた。

発狂

わたしの心の底には化け物がいる。

暴れ回りやしないし、何かを唆すでもない。ただ10年前に作った血色の汚泥に身を潜めて、飛び出す瞬間を目をぎらつかせて狙っているのだ。嫌な笑み。もうそろそろだと、化け物は言う。腐った呼吸が首筋に当たったような気がして吐き気を覚える。

化け物がいる、化け物がいる。化け物は外に出るのを望んでいる。嫌な生き物。けれど育てたのはわたし自身だ。

 

永遠を遇するような話だった。長い永い話だった。話自体は極力掻い摘んだ短いものだったのに、それでも今のわたしにとって、それは酷く浮世離れした時間だった。現実から、乖離しているような。

 

指先が、焦げついた情報を英文にして次々と英文字を落としている間、ずっと心臓が酷く嫌な動きをしていた。疾走し、緩慢になり、また不規則に動き出す。人ではない化け物の正体を知った怯懦ではない。じくじくした痛みを包含する過去に付随する憤怒でもない。興奮でもない。

ただわたしの心臓は螺子が外れた機械のように拍動していた。それでも外貌だけは普段の泰然を装えているのだから、自分のことながら異常だと冷静に思った。軽く握った掌には汗もかかず、きっと顔色も変わっていないんだろう。だからわたしは自分が静かに狂い出している事を感じる。

 

 

心の底で嫌な音がした。この音を知っている。ああ、そうだ。あれがとうとう汚泥から足を上げる音だ。腐臭が漂って、感覚を蝕む。目を向ければ、わたしが立派に育て上げた血色の化け物が笑っている。嘲笑する。そうだよ。やっと分かったの。そういって、また笑う。高らかに。

 

ジグソーパズルの最後の一片を嵌めるようにあっけなく、その瞬間はやってくる。

俄かには信じられないはずの話は、わたしの中で全ての符号を合致させる。知ってしまった、それが合図だ。

 

 

 

悲劇は度を過ぎれば喜劇になる。何て滑稽なんだ。目の前で化け物が笑った。よく見るとわたしの形をしている。何て、滑稽なんだ。

哄笑は止まなかった。笑う。あるいは嘲笑う。それが何を明確に蔑んでいるのか、既にわたしにも分からなかった。化け物はもう飛び出してしまった。ただ、それだけのことだ。