そっち

最近、少し冬が嫌いじゃなくなった。

前までは本当に夏が一番好きだった。暑い中仰ぐ団扇の微妙な涼しさとか、日光がアスファルトに反射する美しさとか、冷たいアイスを溶けないように食べることだとか、水の気持ちよさとか、祭りで夜と共存することとか、花火の淡さとか。この心地良い感覚を語ると彼が首を傾げていたのを覚えている。その後に冬は嫌い、というと勢いよく頷いてくれたことも。

 

「俺、実はおばあちゃんっ子なんですけど、」

突然。

彼がそう言って、私は現実に戻った。ぼんやりとしていると、どうも今までの出来事をふと思い出したりして、気づいたら「そっち」へ行ってしまう。誰かの声や何かの音で、ふっと戻ってくる。そういう感覚的なものかもしれないけれど、確かに私は「そっち」へ行っていたのだと、近頃は思うようになった。

 

「ごめん、もっかい言って」

素直に聞いてなかったことを謝り、そう言うと彼は少し不貞腐れて、次はないですからね、とゆっくり答えた。私はその言葉をきちんと聞き取ってから、頷いた。 

 

せっかくの誕生日なのに、彼は風邪を引いている。それなのに何処かへ行こうと私を訪ねてきたから、私は彼の家がいいと言って、彼を寝かせることに成功した。元気だと言い張りつつ咳き込むから、こうして正解だったと思う。これで彼の風邪が更に悪化したら、罪悪感に襲われるのは、間違いなく私だ。ごめんね、自分勝手でさ。

 

「俺、おばあちゃんっ子なんですけど、」

「あ、そんな感じする」

「なんか出てるでしょ、優しい感じが」

「寝てる時だけだけどね」

うわひでえ、と彼が笑うので、私も笑った。途中、また彼が咳き込んで、その咳き込み方があまりにも苦しそうで、何故か私は怖くなった。本当に怖いのは、私自身なんだけど。

 

「夜に爪を切ったら親の死に目に会えないって、ばあちゃんがずっと言ってたんですよ」

 

天井をぼんやりと見上げながら、彼は続ける。

「当時の俺はよくわかってなくて、でもとにかくいけないことなんだなってことだけは理解して、馬鹿みたいに時間守って爪切ってたんです」

彼は掌を天井に向けて、伸ばす。視線が、その掌へと移る。

「何か、信じられない」

「でしょ?俺もちょっと、信じられないです」

こんなこと貴女に話してるのも信じられないですけど、そう呟いた。そこは聞こえなかったことにした。本当は、もうなんにも聞きたくないんだ、私は。これからのことを、思うと。こんな私を、許さなくていいんだよ。

 

「でも」

彼の瞳は、いつの間にか死んでいる。掌をそっと天井から離す。

 

「母親は、俺の目の前で死んだんです」

 

一瞬、心臓が止まったかと思った。それくらい、彼の声は、静かで低くて、揺れがなかった。

「それ以来ですかね、信じることを止めようと思ったのは」

「そう、なんだ」

「だから、裏切られる前に裏切るようにしてるんです」

自分でも馬鹿だってわかってるんですけどね、と彼は続けた。まだ何か言いそうだったので、私はそれを制した。

「こういうこと話すの珍しいね、やっぱ風邪ひいて疲れてんだよ。だから今は寝て、早く良くなって。あと、誕生日おめでとう」

言いたいことを全て言い切ろうとすると、彼がふ、と笑った。

「なんかお祝いの方がついでっぽい感じですね」

「だってそりゃ風邪の方が心配だし」

「でも、帰っちゃったら寂しいかも」

あまりにも普段では想像のつかないように可愛らしいことを言う。だから私は、彼の頭をやさしく撫でた。

「大丈夫、朝まで居てあげるよ」

 

 

彼が眠ったのを確認して、私は「そっち」へ行った。

 

最近、少しだけ冬が嫌いじゃなくなった。

それは、冬の良さを知れたからだと思う。ひとりで過ごす冬は寂しかったし、大勢で過ごす冬は気を紛らすだけのものに過ぎなかったけれど、彼と過ごせた冬は、それなりに好きだった。

めちゃめちゃ寒くて、その上喧嘩するし、涙はあったかくて気持ち悪くて、最悪だったこともあった。けど、白い息で手をあたためて、コンビニの肉まんをふたり夜の公園で食べるのは本当に悪くなかった。たまに手繋いだり、寒い夜を突っ切っていく自転車の二人乗りしたり、インスタントのカップスープで心身温まるのも、悪くなかった。本当にそれは、良い経験をしたと思う。

だけど、同じ冬は来ない。二度目はどうしても、新鮮味はないだろう。そういうのを私自身我慢できるかわかんなかったし、彼が冷めるのも、見たくなかった。

 

ずるいことを、酷いことをするのだということも、わかっている。でも本当に彼は私に縋りつくのか?と自問すれば、強く頷けるわけでもなかった。だから私は、自分から切り出そうと思った。 

だからこそ、彼の話は聞きたくなかった。彼のおばあちゃんの言葉は故意ではなかったにしろ、私は故意的に彼を裏切ろうとしている。また彼を底に突き落としてしまうのは、凄く申し訳ないと思う。でも私は、そういう酷い人間なんだと思う。

自分で自分を嘲笑った。大切な日に、ましてや誕生日に別れを切り出そうとする私は、きっと神様がいたら殺されているくらい、汚い心を持っている。

 

それでも、彼の話を聞いてそれを言うのに怯んだ私は、多少のやさしさはあるのかもしれない。安心して眠っている様子の彼を見ながら、ぼんやりとそう思った。寝顔は少しわらっているようだった。彼の見ている夢ができるだけあたたかいものであればいい。無責任だけれど、私のことなんかで傷つく姿は、想像したくないから。

 

 

「朝まではちゃんと、傍にいるよ」

 

それからゆっくり話して、終止符を打とう。

想い出はきちんと「そっち」へ持っていくからさ。  眠っている彼に、そっと口付けた。