これを生と言うのなら実に無様なものであったし事実今もそうである

何本もの糸がが整然と連なり絡み合うように世界が正しい形で織られ、私の生命がそれなりに秩序とした形で成立していたのはもう10年以上も昔の話で、美しかったはずの糸はとうに血塗られた手で解かれ潰されている。

引き千切られた世界はどこを見ても何処を求めても最早手には戻らない。無様な片輪の生命。それを復讐と言う下らない自己欺瞞に頼り、拙い手で何とか不器用に先へと繋いで、そうしてその過程でも沢山の糸を愚昧に無為に千切ってここまで歩いてきた。

これを生と言うのなら。

肉体が呼吸をやめないからいまだ元な形で私は存在していると言うだけである。体だけ、10年前も今も変わらず肺に空気を取り込み心臓に鼓動を打たせ、そうして食物という栄養素を取り込んでいる。

しかしそれもまた無様の表出だ。だってその内側でぐずぐずと精神は、魂は、へどろのようにくされきっていた。復元の意図などみえやしない、真の汚穢とは浄化の余地もなくただ底無しの沼を作っていくだけだ。10年前に作られた傷は私の中で膿み爛れ、そうしてもはや取り返しの付かないところまで私を追い込み汚濁の手を広げている。

逃れられない闇がおってくる。

じわじわと、例えば地面に血がしみこむように。あれが私を喰らうのか。殺すのか。だけど私の足はヘドロに埋まって逃げることもかなわない。予定調和のようにいっそ静謐と迫ってくる。それは。

 

だけどあれを育てたのは私で、あれはつまり私自身だ。それを知っていた。そうしてあれに取り込まれる、それこそこの下らないかりそめの生の、自己欺瞞さえさせなかった無様な終焉だ、とも。分かっている。だってだれももう私を引き上げてくれやしない。

私の掌を包む優しい手は当の昔に引き千切られて肉片と化している。だから仕様がないのだ。掌のものは全部消えてしまうのだから。私はもう何も持っていない。

もうそんなものは持ちたくもなかったのだから、分かっていた。そのはずだった。

 

 

あの子は野良猫なのだと、そう言い聞かせた。彼女は家にたまに立ち寄る、唯の、野良猫なのだ。自分のそれへの感情が、いつの間にか野良猫を愛でるだけの為にはあまりに相応しくない不純物を混ぜていたのを心のどこかで知りながら、それをきちんと認めるには私の心は磨耗し疲弊しきっていたのだから、あの子はあの子自身がいっていたように街から街をわたる唯の野良猫なのだと、そう、必死で自分を言い聞かせていた。

何時かは居なくなる。たまに私の帰りをドアの前で待ちぶせ、私を迎えた時のあの綻ぶ様な可愛らしい笑顔、食料を与えた時の無邪気な喜悦、強請る唇、抱きついてくる華奢な体、過ごす時間が長くなれば長くなるほど、その愚かな思い込みはどんどん恋慕と執着と言う、当の昔に忘れ去ったはずの熱情に食い殺されていったのだけど、それでも、私の傷を負った心はそれを認める事を自分に許さなかった。だって空になった掌を見下ろす度に、この腕ごと大切なものが消し炭と化す様が何度でも何度でも蘇ってくるのだから、もうそんなもの持ちたくはないのだ。絶対に。

 

なあ、私は人間ですら守れなかった。皆死んで皆消えた。ならば人間でないものを、どうして掴んで離さないでいられる。

どんなに私が求めたって、いつか大事なものは指の間から消えていくのだ。零れていく。私が何時か消えると頑是無く信じたそれが、振り返って笑うたび、思った。

ずっと同じ方向ばかり見てなんかいられない。気侭で無邪気な放浪の心、無様な復讐心。持っているものからして、あの子と私とでは違いすぎるのだ。あの子は人間じゃないんだから例えばこの心が私が否定するあの恐ろしい感情だったとして、どうしてそれをあの子が理解できる?あの子は猫なのだから人間の愛情なんか知らないし理解できない存在すら意味がない。だから私がこれを受容したとして何が出来る。認めると言うことは希求すると言うことだ。あわない蝶番を無理やり嵌めようとしたって其処に生まれるのは歪みであり或いは破壊だ。あの子と、私は、違う生き物だ。

だから、あの背中がいつの間にか自分の見えないところへ掻き消えるなんて、本当に訳のないことで。

そう、あの子は野良猫だから。私が飼っているのではないし、そうして彼女は何時か消える。猫は、いつかどこかへいくのだ、そういうものだから、いなくなっても私はどこも痛くない。

 

そうして私は食われてお仕舞い。それだけだ。どこも、いたくない。

 

 

そう、必死に思い込もうと、

 

 

 

久しぶりに家に上がってきて、ソファの上の自分の膝に横向きに体を重ねる子猫の、野良の癖に絹みたいな艶やかな髪を優しく撫でてやると、彼女はじゃれたようにきゃらきゃら笑った。

たまに仕事の合間に路地で見かける、世界に自分の足で立つ野良猫としての妍艶なほどの野生の美とは違う、その様はまるで10やそこらの子供のようで、私はその違和にいまだ驚かされている。舌足らずな甘える口調で私をよんで、白く細い首筋の先に付いた頭の、それに嵌まった茶の大きな瞳がくるんと回って見上げた。その綺麗な瞳には子供の無邪気さ以外なにも見当たらなくて、とても彼女が、彼女自身が話していた薄汚い汚穢の中で生誕したのだとは思えないといつも考えている。

髪を撫でられる感触が気に入ったのか、彼女は私の膝の上から動かない。ぴくぴくと薄い茶の耳を揺らし、細い尻尾を私の腕に軽く絡ませて、動かないまま、愉快そうな口調で、私に触れるのが好きだね、そういって彼女が上目遣いに私を見上げて笑った。

その様はさっきの稚さとは一転して妍艶でなよやかで、ちろり、と覗く舌が私の何かを誘う。どぐり。跳ねる心臓の鼓動は気づかない振りをした。慣れている。本当に忘れたいことは忘れられないくせに、認めるべきことから、目を逸らすのだけ、上手くなっていた。さあ、そうかな。そうして言葉を、真実を流しすのだ。何も知らない振りで、表情も殺して。慣れている。要らない言葉だけ漏れていく。口から零れるのは本当は聞きたくのない問いばかりだ。

 

次の街にはいつ出て行くの、

私の口から唐突に漏れた言葉はぼんやりとしていた私にとっても意志する物ではなかったが、彼女にとっても予想外だったのだろう。彼女は一瞬目を見開いた。

怒らせたかな、自分の言葉の意味を、自分でも何を望んで漏らしたか知らないそれが、言葉だけを取ったら彼女に対する倦厭を表す可能性がある事を、もちろん意識せずに言葉を落とした私はそのつもりで口にしたわけではないが、一応は知っていて、感情に敏感で、一度それを察したらもはやすぐに姿を消してしまうだろう。それはその繊細さゆえ出なく、迫害を加える人間によって悲惨な生活を送った彼女ゆえの保守である。私は、自分の紡いだ意志せぬ言葉に気づいた瞬間一瞬身構えた。その理由すら彼女は私に追及しない。

しかしその直後には彼女は口に手を当てることも忘れてけらけらと笑う。言葉だけ取れば自分が邪魔扱いされたかもしれない事に怒る気配は微塵も見せない、ただ、どうだろうね、と彼女は楽しそうに相槌を打つ。

こんなに触れてくるくせに、そんなこと言うなんて、私に出て行って欲しいんですか。おもしろいひと。

それは糾弾の響きではない。それはまるで私の言葉は所詮彼女の感情には上ってこないとでも見せ付けられるようでもあった。所詮違う生き物なのだと。

さあ、ねえ。彼女の髪をやはり撫でながら、感情を見せずに静かに落とす私の言葉に、彼女は、人間ではない生き物は、無邪気に、音を重ねた。 

そうね、もう移ってもいいんだけど、貴女がいるからもう少し居ようかと思ってるの。

その言葉の意味も、知らないくせに。

ねえ、私、あなたがとても好きですよ。

 

必死に、いなくなったって、痛くなんて、ないのだと、

必死に、思い込もうと、している。

 

この無様な生。食われるのだな、だけど苦痛はそれだけで終わりだ。もう何も痛くない。

大丈夫、掌のものは何もないのだから、この子は唯の野良猫なのだから、いついなくなったってどこも痛むはずはないのだ。痛くはない。

だからその言葉が一瞬私の呼吸を止めたことも、私の胸の深奥の、もう自分自身さえ触れられなかった部分を確かにかすっていったことも、きっと全部嘘なのだ。

 

 

なあ、いつかはいなくなるくせに。