終幕はまだですか待ち望む結果の先

わたしは長い間ふたつのものに恋をしていた。

たったふたつの尊ぶべきものに向けるいっさいの感情はいつだって美しくなどなくて、可能ならいつだって切り離してしまいたいと思うほどに重く苦々しいものばかりだ。例えば敬愛であり、羨望であり、憧憬であり、そして愛するが故の嫉妬でもあった。そうだできるものなら、夜に燻るあの篝火の中に放り込んでしまいたかった。こんなに悲しくて意味のない恋はふたつもあったってどうしようもない。相乗の悲しみを抱え込む理由など何処にもないのだから。

 

彼の、あの子を見る深い瞳が好きだった。絶望の淵に立っているつもりになりながら、暗い闇の隙間を掻い潜って掴んでいようとするあの悲しい瞳が、大好きで、そして何よりも大嫌いだった。あの目は全てを遮断して、あれだけを見ていようあれだけを捕まえていようあれだけを、愛していようと、彼がそう思っているのを絶望的なくらいに伝えてくる。盲目的な熱情といえばそれでいいかもしれない。だけどわたしにとってみればそんなのはただの拒絶だったし排斥だった。如何しても受け入れ難い疎外感を孕んでいながらそれに焦がれてしまうのだから、本当にどうしようもない。わたしは惨めだ。憐れだ。いつだってあの美しい瞳を愛していた。

 

隣に腰掛ける少女は右手を結んだり開いたりしながらしきりに瞬きをしている。

まるで終わりのない廊下のように遠くまで続く一本のリノリウムの道が所々に燈された誘導灯の明かりでうっすらと緑色に染まっていて、いくつもの種類の混ざった薬品のにおいが充満している。

少女の瞬きは握り拳を一つ作る間に四回。開くまでに四回。現実感の湧かない夢の中で何かを確かめるように緻密な動きが機械的に繰り返されている。

大丈夫だよ、と口添えても、少女は頷くだけで、拳を作る動きを止めることもしなければ、瞬きの回数も変わらなかった。

「貴女は、そろそろ帰らないと。」

緊急の場合には時間外の面会も認められているが、如何せんこの状況はそれに当てはまらない。もう少しだけ、と少女は言う。また果ての無い時間が流れて、腕時計の秒針の音が厭に大きく聞こえる。

「ねえ、」

「あの人が死んだら、悲しい?」 

静かな問い掛けに、少女の意識が漸くこちらに向いたのを感じた。わたしもゆっくり少女を見る。拳の開閉が停止しても、瞬きだけはやはり速いままだ。秒針が回る。薬品が香る。緑色に染まる。

がたん、と音を立てて少女が立ち上がった。すぐ右で空気の切れる音がして、瞬間。痛みが走った。どうやら彼女の左手が頬に触れたらしい。伸びた爪が乱暴に右頬を擦った。

破けた表皮からゆっくりと生温い液体が涙のように伝って、込み上げてくるのは熱だ。口元に垂れてきた液体を舐め取ると無機質な鉄の味がして、これこそが生命の証明だと信じていたことが酷く可笑しい。気持ちの悪いにおいは眩暈を引き起こし、自分が泣いていることにわたしはしばらく気付かなかった。

そんなに痛かったですか、とあの小さな指先が傷を撫でたので、わたしは泣き止むのを止めた。

 

 

(少しだけ残酷な告白をしようか。わたしはあの時、あの子が悲しくないって答えると思ったんだ。根拠はないけれどね。ただなんとなく、そう思った。或いはそう答えて欲しかったのかもしれない。あの人が死んでも悲しくない、寂しくない。だって、あの二人の終わりは、)

(もしかしたら死に往くあの人に、あの子がついていくことかも知れないって。)

 

 

ごめんなさい、と少女が何度も謝る。熱い指でわたしの頬に触れながら、何度も。

 

いつか別れゆくこの温度が愛おしいほどかなしい。柔らかな皮膚が擦れて、血の滲むほどの終わりが待っているのだろう。

わたしはこの静かな劇場の観客だ。これが終幕だというならば、音の無い慟哭と拍手を。