やさしいぜつぼう
そのいきものが、すこしずつだけれど確実に死に近付いていることは遠眼にもはっきりとわかった。狭い車道のまんなかに横たわるそれに気付いて、先輩はぎゅっと眉根を寄せる。
「あ」
みじかくあげられた声に籠もる感情が何なのかはわからない。ちなみに私は、いやなものをみたな、と思った。
それは腹から内臓を出しながら、それでも生きようとでもするかのように小刻みにふるえている。車に轢かれたのだということはすぐにわかった。
頭痛がしたような錯覚、こめかみを押さえる。 眼を閉じ、そして開くと先輩のつり眼がちの瞳が私を覗き込んでいた。
「どうかしたの?」
「いえ、なんにも」
笑って、私は首を振る。いたいでしょうね、と言うと先輩はそりゃあね、と至極あっさりとした口調で相槌を打った。
口調はあっさりとしている癖に、何度もぱちぱちとまばたきを繰り返す深緑色の瞳が先輩の動揺を忠実に表現しているように思える。
「せんぱいこそ、どうかした?」
「は?べつにどうもしないけど」
突き放すような口調で言って、先輩はひょいとガードレールを飛び越えた。しなやかでそつのない動作。
それがあまりに迷い無い動作だったから、私は先輩を追うのも忘れてその姿をただぼんやりと眺めてしまった。はたから見ればきっと間が抜けて見えたことだろう。
浅黒く細い腕が、そのいきものをそっと抱き上げた。車道の真ん中に佇んで先輩は私に向けてはにかんだように笑う。 ガードレールを超えて駆け寄る。先輩の腕の中で、それはよわよわしく震えていた。薄く開かれた眼。
「どうするんすか、これ」
「とりあえず、あんなとこにあったら邪魔じゃん?」
言葉が通じないからって言いたい放題だ。どうしたものかと思いながら眺めていると、それが唐突にめいっぱい眼を開いてみゃあ、と鳴いた。
「にゃあ?」
首を傾げて先輩が問うたけれど、それきりそれは口を噤んで何も言わない。
「遺言?」
「さあ、」
私たちは視線を合わせて、別に示し合わせたわけでも無いのに同時にへら、と笑った。今にも死んでしまいそうないきものを抱えながら浮かべるにはあまりに不似合いな、必要以上に穏やかな笑顔だった。
「こいつ天国に行けるかなあ」
「そんなもん無いし」
「ありますよ」
馬鹿げていると知りながら、私はむきになって言い返す。天国とかそういうやさしい場所はあるべきだ、と私は思う。というかそれはいっそ祈りじみた気持ちだった。私の代わりに死んだあのひとのために。先輩はそんな私をからかうように眼を細めた。
「まあ別に良いけど。天国でも何処でも行っちゃえ」
「私は行けないけど」
どうして、と先輩が眼で問う。
「ひとごろしだから」
時々私は、そのことを無性に主張したくなった。たぶん、自分で自分のことを忘れない為に。 そのたび、先輩は傷ついたような眼で私を見る。何故なら、それは拒絶の言葉だからだ。私とあなたは違うという、明確な境界線。
「だから行けない。こいつと先輩はいけるだろうけど」
先輩はじっと俺を見つめた後、妙な表情をした。それは泣く直前のようにも、ひどく優しい微笑みのようにも見えた。 細い腕を上げ、次の瞬間垂直に振り下ろす。 ぐしゃり、と、肉の叩きつけられる嫌な音がした。 私は視線を下ろすことが出来ない。私たちの足元には、もうけして動くことの無い肉塊があるのだろう。
「これで同じ?」
凄く腹を立てた時みたいに、先輩はきつく眉を釣り上げていた。唇が僅かに震えている。せわしなく瞬きが繰り返され、このひとは今にも泣き出してしまいそうなのだとわかった。
慰める為に抱きしめなくては、と思うのに私の腕は凍り付いたように動かない。
「これで、私も天国に行けない?」
疑問のかたちをとったそれは、たぶん確認だった。震える掌が私の眼の前にさしだされる。
「あなたが行かない場所なら、私も行かない」
ああ、このひとはまちがっている。
それは何ひとつ正しくない。それは誰も救わない。救われない。
救われないと、わかっているのに。
私はその小さな手をとった。 小さないきものを地面に叩きつけたその手を握り締めて、歩き出す。
「泣かないでくださいよ」
「泣くかよ馬鹿」
けれどその声は震えていた。さっきよりも強烈に、抱きしめたいと思った。
「先輩はわるくないよ」
悪いのは私だ。このひとのやりかたでは救われないと知っている。こんな、私と同じ場所まで落ちる為だけに他者を冒涜するようなやり方では。
それでも私はこのひとの手を離すことは出来ない。さしだされるままに縋ってしまう。
さみしさを紛らわす為に。或いはどうしようもない欠落を埋める為に。
このひとが私と同じ傷を抱えて死んでいくものの体温を忘れられずに夜は夢に魘され昼は自責にかられ死にたいような気持ちになりながらそばにいてくれるなら、私はあの人を殺してしまった自分の途方も無く続く生を怖がらずに生きていける。
さみしさは消えて欠落は埋められる。
そんなのは正しくないとわかっているのに。
ごめんなさい、と震える声が呟いた。このひとはもう後悔している。私の為に一時の感情でちいさな命を奪ったことを(いくらもう死へのカウントダウンが始まっていたとはいえ)
許されない。貴女はけして自分を許せないだろう。意志を伴っていた分、ある意味私よりたちが悪い。
このひとはもう、自分は天国に行けないと思い込んでしまった。
慰めるように私は強く手を握る。
私は天国を信じた。そして私が行くのは地獄だろうと思った。先輩は優しくて、優しいから、私をひとりにしない為に一緒に行ってくれるという。
それは少しも正しくないよ、せんぱい。
だけど貴女の手はあたたかくて、私はさみしさを言い訳に貴女を引きずり込まずにはいられないんだ。
私の、Traumaまで。