おもひでぼとぼと

奇麗な切断面からまだ流動を続ける血液が次から次から流れていて、室内は慣れた香りでいっぱいだ。随分あっさりやられたんだなあと最初の感想はそれだった。素直に。だってあんなに、あんな叶わない場所に立っていて何度も届かねえと思ったのに、あんたの死ぬ場所はもっと荒んでてぼろぼろでどうしようもないくらい真っ暗で何もない場所なんだと理由もなく妄信していたのに、なんだ結局ここで死ぬのかよって思った。憤慨もあった。だらんと力なく垂れた腕にはもうほとんど血液が流れていないようで真白だった。

誰があんたを殺したかとかそんなのはどうでも良かったんだ。実のところ。ただなんだか無性にあんたが憐れになった。切り離された顔なんて見れたものじゃなかったし頸部を覗けばそりゃあぶっとい骨が入っていたからなんだか可笑しかった。人の身体か、これが。あんた、奇麗な顔してたのになあ。

 

私の人生なんて大したものじゃなかったからあんたに教えられたこともほとんど忘れちゃいないと思う。思い出は少なければ少ないほどひとつひとつが鮮明になるものだ。ああ、これもあんたが言ったんだっけ。そう、ひとつの風景でさえ厭に鮮明に刻まれてるものがある。例えば雲の流れが速いとか、鳥の飛行が低いとか、項を吹き抜ける風が穏やかだとか、夕焼けが血みてえだとか、言い出せばきりがないんだけれど、これ以上増えることはないんだなあ。

私が夕焼けを林檎飴のようだと言ったので夕焼けは林檎飴になったし、雲の流れは綿菓子になった。つまりは、あんたは死んでいて私は生きているからちょっとずつ、気付かないうちに私はあんたを不明瞭で曖昧な存在にしてしまっているわけで、いつか訪れるかもしれないそういう瞬間について考えておく必要があるかもしれない。

忘却、その瞬間。

 

本当はあの瞬間から、全部間違っていたんじゃないかって考えることがある。

個々の狂気に屈して誰一人あの場所を守ろうなんて考える余裕もなかった。だけどそうじゃない。どうせ行く場所がないのは分かっていたしあんただってこの世にはいないんだから、どんなことをしてでも、例えば死とか、そういうものを選んででもあの場所を離れちゃいけなかったんだと、離れたのは間違いだったんだと。追い腹とか殉死みたいな大層な(その上気色の悪い!)ことじゃないがそういう道だってなかったわけじゃない。だけど私はそういう道を選ばなかったから、あの場所からあんたの匂いのするもの全部を捨てて逃げ出したから、私は生きている。生きているからあんたをどんどん忘れていく。なあ、なんて滑稽な話なんだろう。

 

 

輪郭、髪、煙草、服、指、爪、目、鼻、口、耳、睫、声、今はまだ多くを覚えていて、私の中の多くはあんたが占めているわけだけれど、多分私はまだまだ生きることになるので、新しい記憶は雪が積もるように地面を覆い隠してしまうだろう。つまり、私の中の根底、あんたが形成した私という人格さえも見えなくさせて、あんたを忘れさせる。

だけどあああんたがいて、あの場所があって、あんたが死んで、私は生きている。

なんて滑稽で残酷なサイクル。あんたが死んで、私は生きている!

 

なにも忘れずに生きるなんて不可能だろう。不変は永遠にも似ている。そんなものは望むだけ無駄だ。

私は生きている。

だから、あんたは確かに存在した。